lunes, 14 de octubre de 2013

Flamenco Performance A3

Próximo evento 21/10/2013.

Artista invitado: Mari Watanabe.
Dance: Begoña Castro, Anika Burton, Etsuko Sakai.
Guitarra: Javier Navarro.
Cante: Aguilar de Jerez


Workshop 21/10/2013

Butoh and expresive visual art: Anika Burton.
Flamenco y cultura española: Begoña Castro, Javier Navarro.





http://academia-spain.com



ガスパッチョのなかの風景
 もっともよく知られているアンダルシアの料理といったら、まずガスパッチョの名が挙げられるだろう。
「アンダルシアには、常に飢えとガスパッチョが在った」と書いた詩人がいたほどに、ガスパッチョはこの乾いた非情な大地に欠かせない存在である。ガスパッチョとは何なのか? その問いに答えることは、アンダルシアに生きるとは何なのかという問いにもいくらか答えることになるかもしれない。

 まず初めに、にんにくが在った。
「にんにくを使った料理を並べるより、使わない料理を数える方が早い」というのは17世紀にこの国を訪れた旅人の記述だが、スペイン料理のもっとも基本的な調味料といえばにんにくであり、最近いくらか活躍の場が減ってきたとはいえ、まだまだスペイン料理をにんにく抜きで語ることはできない。コロンブスのパトロンとなったイサベル女王のセリフを引用させていただくなら、まさに「我々には、他のどんな香辛料がなくてもにんにくがあるではないか!」ということであり、にんにくはスペイン人の嗜好の奥深い部分を今も牛耳っている。
 チンチョン、ペドロニェラスなど有名なにんにくの産地はいずれもスペイン中央部の広大なメセタ(台地)に位置していて、そこでは人々は昔も今もにんにく作りを生業として暮らしている。見渡す限り連なるにんにく畑を耕す。照りつける太陽のもとで収穫する。一家総出でにんにくを縄で連ね、保存用に束ねていく……。こうして出荷されたにんにくを、消費する側の先頭にたつのがアンダルシア地方である。
 彼らはありとあらゆる料理に、たっぷりとにんにくを使う。スペイン料理には元々「アル・アヒージョ(にんにく風味)」と名つけられたものが多々あるけれど、アンダルシアでは名前などついていなくても当然のことのようににんにく風味であることが多い。そのなかでも、ガスパッチョの場合にんにくは生のまますり潰して使われるから、もっとも強い自己主張をすることになる。つまり、「初めににんにく在りき」と言うにふさわしい存在感を発揮するわけである。
  
 次に登場するのは、疑いもなくオリーブ油だろう。アンダルシアはスペインのなかでも、とりわけオリーブに縁が深い。行けども行けども乾ききった岩山に、オリーブの木々だけが生えている……アンダルシアのどこを旅していても出会う、どちらかというと荒涼とした風景である。
 オリーブの実が黒ずむほどに熟すのを待って、採り入れが始まる。木の下に一面に布や網が敷かれ、一斉に木を揺すって実を落とす。落とした実を集め終わると次の木へ。この季節だけオリーブ摘みに雇われている若者たちが、木が裸になるのと一緒に移動していく。
 フラメンコに、こんな歌詞がある。「オリーブ摘みにいけば、オリーブの木を揺すりながら恋が生まれる。オリーブ摘みに行かなけりゃ、恋も生まれない----」。普段はオリーブの葉が風にそよぐばかりで静かな畑が、男たちの熱気や娘たちの笑い声に包まれる。それは、さしもの暑いアンダルシアの夏も終わり朝晩の冷え込みが強くなり始める11月の半ばから年が明けて1月頃までの、短い恋の季節である。
 ほとんどすべてのスペイン料理にオリーブ油は登場するけれど、ガスパッチョにおけるオリーブ油は必要不可欠な調味料である。オリーブ油の豊かでみずみずしい香り。甘く芳醇な味。わずかにぴりっとしたのど越し。それらがガスパッチョをこくのある栄養豊かな一皿に仕上げる。アンダルシアの畑で始まったオリーブの物語は、ガスパッチョのなかで見事に完結するのである。

 続いて登場するのはパン。パンは昔から、スープに入れて食べるための大切な食材だった。ガスパッチョの場合も、残り物のパン数切れが影の主役となって活躍する。
 香ばしさを加える。適度なとろみをつける。味がまろやかになる。ボリュームが増える。こんなにたくさんの役割を背負っているパンだが、最近はあまり大量に加えない。ガスパッチョでお腹をいっぱいにしなければならないほど、今の人々は飢えていないからだろう。飢えと共に歩んできたガスパッチョだから、飢えと共に変わっていく。パンの存在がほとんど感じられないさらっとした現代風のガスパッチョは、だからアンダルシアの人々がもう飢えていないという喜ばしい時代の変化の証だということになる。
 「ふわっと軽くてお腹一杯食べてももたれない」とローマ帝国の人々にまで人気があったと言う「アンダルシアのパン」の面影をとどめるパンに出会ったことがある。コルドバ郊外の小さな村で、村の周囲には一面に小麦畑がうねり、その向こうにはイスラム教徒支配の時代の名残だと言う物見の塔がそびえていた。
 昼も薄暗い台所で、まだ若いお母さんがガスパッチョのために、黄金色のパンをナイフで削っていく。家の外で遊ぶ子供たちの歓声だけが、真昼の空気を貫いて響いてくる。ひとかけら味見させてもらったパンは香ばしくて軽く、それでいてしっかりと小麦の味がした。
 
 にんにくとオリーブ油とパン。それは人々が、焼けつくような太陽のもとで生き抜いていくために発見した生活の知恵ともいうべき食物だった。いや、暑さだけではない。貧しさから身を守るにも同じ組み合わせが有効であることを、彼らはよく知っていた。
 この三つの食材から、ガスパッチョが誕生した。現在知られているガスパッチョは通常赤いスープだけれど、ガスパッチョの原型とは白いスープだったのである。
 まずにんにくをどろどろになるまですりつぶす。そこへ水に浸しておいたパンを加える。オリーブ油を少しずつ加えて、濃いソースのようにしていく。最後に塩、酢で味をととのえ、水で薄めて適当な濃さにする。これがコルドバに伝わるもっとも古いガスパッチョの作り方である。
 この「すりつぶす」作業に使われるのが「モルテーロ」と呼ばれるすり鉢であり、実はこれこそがガスパッチョ作りになくてはならない唯一無二の調理器具である。アンダルシアでは今も、ガスパッチョ用の大きくどっしりした素焼きのモルテーロをみかける。素焼きの器は中身を冷やしてくれるから、このモルテーロで作ったガスパッチョはおのずからひんやりと冷たく仕上がることになる。
 いくら電気製品が進歩しても、時間と手間をかけてモルテーロで作ったガスパッチョの味とひんやりした自然の冷たさを、ミキサーと冷蔵庫で再現することはできない。ガスパッチョがモルテーロのなかですり混ぜられた混沌であり宇宙であるとするなら、その宇宙を再現することもできないだろう……。
 
 トマトは、南アメリカ大陸からスペインへとやってきた。
 この未知の大陸には、ピサロやコルテスのようなスペインから押しかけて来た略奪者たちには想像もつかないような高度な文化が築かれていて、アステカ語で『トマトゥル』と呼ばれるトマトを三千年以上も前から栽培していたのも彼らだった。
 征服者たちは、黄金とともにトマトをスペインに持ち帰った。黄金の方は相次ぐ戦争や植民地の維持に使われてスペインの人々を実際に潤したわけではなかったが、トマトの方は、まずはスペイン庶民の食卓を、そしてやがてはヨーロッパ全体の食卓をわけ隔てなく賑わす人気者となっていく。
 スペイン全土で、煮こみ料理やソースの材料として多くの料理をひきたているトマトだが、生のままで食べるもっともシンプルで効果的な食べ方といえば、サラダとガスパッチョだろう。「トマトにオリーブ油と塩をかけただけ」というのがアンダルシアでもっとも好まれるサラダの原型だといえば、それをそのまま液体にしたようなガスパッチョがいかに好まれるか想像がつく。アンダルシアの情け容赦なく照らしつける太陽が、甘くて味の濃いトマトにとっては大切な育ての親となることは言うまでもない。

 トマトが舞台に登場したところで、現代版ガスパッチョの主役たちが勢ぞろいしたことになる。
 まず皮を剥いたトマトをボウルにいっぱい。水でふやかした少々のパン。そこにモルテーロでつぶしたにんにくとオリーブ油を加えてミキサーにかける。塩と酢で味をととのえて詰めたい水で薄めれば、標準型ガスパッチョの完成である。
 そこに、きゅうりを加える人もある。ピーマンが入らなくては、と主張する人もある。タマネギこそ味の秘訣と言う人もある。ここからは、「村ごと」そして「家ごと」のガスパッチョの世界である。そしてスペイン各地の郷土料理がそうであるように、誰に聞いても「うちのおふくろのガスパッチョが一番うまい」という返事がかえってくることも間違いない。

 飲むガスパッチョだけではなく、聞いて楽しむガスパッチョもある。セビージャの南東に位置する小さな町モロン・デ・ラ・フロンテーラで8月の初めに開かれるフラメンコのフェスティバルには、「ガスパッチョ・デ・モロン」というタイトルがつけられている。
 祭りの夜、町の広場にはステージと客席と、そしてガスパッチョを供するためのカウンターが準備される。やってきた人々はまず一杯のガスパッチョを手にし、やがてフラメンコが始まる。
 掛け声をかけながら一杯。アーティストが交代しているあいだ、手厳しい批評や議論を戦わせながら一杯-----。なみなみと注がれたガスパッチョでさらに勢いづいて、人々は夜が明けるまでアンダルシアの夏を謳歌する。
 今まで、幾多のアーティストがこのステージを踏んだことだろう。何キロのトマトやにんにくがガスパッチョになったことだろう。
 すべての素材が適切なバランスで混ぜ合わされた時に、もっともおいしくなるガスパッチョ。ギタリストと歌い手が息の合ったかけあいを見せるときに、絶妙の味を生み出すフラメンコ。アンダルシアの生んだふたつの芸術がどちらも、異なった個性のぶつかり合いによって生まれるというのは、決して偶然ではないだろう。
    
 ガスパッチョのなかには、様々な風景が隠されている。
 広大な台地で、黙々とにんにくを束ねる人々。鈍く銀色に光るオリーブ畑と、笑いさざめく若者たち。黄金色に波打つ小麦畑。はるかアンデスからやってきて、今市場に積まれた赤いトマトの輝き------。時代と場所によって微妙に異なるたくさんの風景が、モルテーロのなかですり潰され混ぜ合わされる時、乾いたアンダルシアの大地で様々なタイプのガスパッチョが生まれる。
 貧しくてなお、心豊かな人々の住む大地。めくるめく光と漆黒の闇の交差する土地。そこにガスパッチョがある。そして一皿のガスパッチョのなかにはアンダルシアの悲哀と歓喜が凝縮されていて、何も知らずに口にした者にまで、この地の不可思議さを垣間見せてくれるのである。

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